端午の節句の「内飾り」と「外飾り」って?
2021年03月19日
〇端午の節句の飾り物には「内飾り」と「外飾り」があります
5月5日は端午の節句。男の子の健康と成長を祝う日本伝統の行事です。端午の節句が近づくと、部屋に五月人形を飾り、庭やベランダに鯉のぼりを揚げてお祝いします。飾り物が屋内だけでなく屋外にもあるというのは、女の子のお祝いである桃の節句と大きく違うところです。屋内に飾る鎧飾り・兜飾り・大将飾りなどの五月人形は、まとめて「内飾り」といいます。一方、屋外に飾る鯉のぼりや幟旗は「外飾り」と呼ばれます。
どちらも端午の節句を祝う縁起物であることに間違いないのですが、桃の節句と違い、どうして端午の節句には内と外、両方の飾り物があるのか、あらためて考えると不思議ですよね。その秘密は、五月人形と鯉のぼり、それぞれの発祥の違いにあるのです。
端午の節句の風習は、桃の節句と同じく奈良時代に中国から伝わった厄除け行事でした。邪気が満ちると考えられていた季節の節目に、病気にかからず健康に過ごせますようにと無病息災を願う習わしから始まります。医学が発達していない時代、病気は死と隣り合わせの大きな災いだったため、奈良・平安の宮廷では、節句に魔除けの力があると信じられていた季節の植物を飾り、邪気払いをしていました。
厄除け祈願の行事が男の子のお祝い事に代わり、五月人形や鯉のぼりを飾るようになったのは、鎌倉・室町・江戸と時代が移り変わるなかで、文化の担い手が貴族から武士へ、さらには町人と呼ばれる大衆へと変化していったから。千年以上の時を超えて変遷した端午の節句について、飾り物に注目しながらみていくことにしましょう。
〇「内飾り」は武家から生まれた “厄除け祈願” の飾り
無病息災を願う端午の節句に新しい解釈が加わったのは、武士が台頭する鎌倉・室町時代のことです。旧暦の5月5日は菖蒲が盛りとなる季節であったことから、端午の節句は「菖蒲の節句」とも呼ばれていました。
菖蒲の節句が武家に伝わると、「しょうぶ」の音が “武を尊ぶ” ことを意味する「尚武」と同じことから、武を重んじる武士たちにとって、とくに重要な行事へと変わっていきます。鎧や兜は戦でわが身を守る大切な宝物。大切な尚武の日に、武士の宝である鎧兜を飾り盛大に祝うようになりました。これが現在の鎧飾り・兜飾りの原型であり、五月人形の原点といえるでしょう。
鎧兜を災厄から身を守る神聖なものとする考えは、平安時代からすでにあったようです。戦の勝利をはじめ、祝い事や祭事の際に、祈りや感謝を込めて神に捧げられた「奉納鎧」は、現在も日本全国の古い社に残されています。こうした奉納鎧を再現した五月人形は、現代でもたいへん人気があります。
一方で、武士にとって家の存続もまた重大事。一族の後継者となる男児が誕生すると、男の子を災いから守るために武具を飾り盛大に祝うようになります。こうして端午の節句には男児誕生の祝い事という意味合いも加わりました。戦乱の世が終わりを告げ、平和な江戸時代になると、幕府は「五節句」を定め、端午の節句を公式行事とします。この日、大名や旗本は江戸城に出仕し、将軍に祝辞を述べました。また、将軍家にお世継ぎとなる男児が生まれると、武具を飾り幟旗を立てて盛大に祝ったといいます。
当時、流行の発信地であった江戸城は、江戸っ子たちの注目の的。人々は将軍家の習わしをまね、紙で作った鎧兜を飾って男の子の誕生と健やかな成長を願いお祝いするようになります。当初は屋外に並べられたこうした飾りも、やがて室内で楽しめる五月人形へと進化。人形文化が花開く江戸中期以降には、武者人形やおぼこ大将など多彩な五月人形が作られるようになったのです。こうして武家から生まれた “厄除け祈願” のお守りは、瞬く間に江戸の町人階級へと浸透し、江戸から地方へと広まっていきました。
〇「外飾り」は町人たちが生んだ “立身出世” の飾り
「内飾り」である五月人形が武家から発祥した厄除けのお守りだとすると、「外飾り」として欠かせないで鯉のぼりは江戸っ子の憧れが生んだアイディア商品だったといえるでしょう。現代も子どもたちが大好きな鯉のぼりですが、なぜ “鯉” が選ばれたのか、ご存知ですか。そこには、当時の人々の深い思いがあるのです。
鯉のぼりが登場する以前、端午の節句に武士が門前に立てたのは、戦場で敵味方を区別するために掲げた幟や旗指物でした。これは、後継ぎとなる男の子の誕生を神に知らせるとともに、神を招く依り代でもあったといわれています。神様が降り立つ目印だったということですね。
戦国時代が終わり江戸時代になると、五月人形とともに幟旗も庶民に広まっていきます。しかし、家紋を染め抜いた幟旗を庶民が使うことは禁じられていたため、江戸っ子たちは代わりに武者絵や登り龍といった勇壮で縁起の良いモチーフを幟に描くようになりました。なかでも、中国の故事である『登竜門』にちなんだ「鯉の滝登り」は大人気でした。鯉が激流を登りきり龍になる物語に、身分階級があった時代の庶民たちはわが身を重な合わせ、生まれてきた男の子に “立身出世” の願いを込めたのでしょう。
町人文化が開花した江戸中期、絵を描くだけでは物足りなくなった人々は、「鯉の滝登り」を立体化。絵幟の先に鯉の形をした小さな吹き流しを付け、これが大ヒットします。そして、このミニ鯉のぼりはしだいに巨大化。最初は黒い真鯉が1匹だけの飾りでしたが、明治後期には赤い緋鯉と一対となり、戦後には新しい家族観を反映して青い子鯉が登場しました。さらに核家族化が進むと、各家庭の人数に合わせられるよう子鯉のカラーバリエーションも増えるなど、いまなお鯉のぼりは進化を続けています。
“立身出世” という言葉がピンとこない時代になり、都市化の波で大きな絵幟は田舎でしか見られなくなったいま、都市部の現代っ子たちはその存在さえ知らないかもしれません。しかし、洒落好きの江戸っ子が考案した鯉のぼりだけは、いまも変わらず子どもたちに大人気のロングセラー。童謡に「屋根より高い~」と歌われた鯉のぼりが都市部を中心に小型化しているのが寂しくもありますが、立派な大人になって社会で活躍できるようにと願う親の気持ちは鯉のぼりとともに、これから先も長く受け継がれていくことでしょう。